セミリタイア生活開始から9ヶ月の感想
セミリタイア生活が始まって9ヶ月が経ちました。
感想をひとことで言うと・・・「あっという間」でしたね。
いつの間にか9ヶ月も経っていたのか、という感じです。
「セミリタイア」という言葉を聞いてイメージするのは、のんびり、まったりとした生活ではないでしょうか。
同じルーティンが繰り返され、刺激のない日々。
時間はゆっくりと流れ、なかなか進まない。
ぼくも、セミリタイアするまではそんなイメージがありました。
でも、実際にセミリタイア生活に入ると、全然違いました。
毎日、何かしらやることがあります。
そしていろんな出来事も起きるのです。
ぼくがセミリタイアしてから始めたのは、ピアノと登山。
楽譜も読めないゼロからピアノをスタートし、毎日少しずつ練習をしています。
月に2回のレッスンは、数少ないプレッシャーとストレスがかかる日です。
これが、日常生活の中に刺激を与えています。
山歩きも始めました。
天気のいい日を狙って、近場の山に向かいます。
ちょっとずつですが、体力がついてきているのを実感しています。
9ヶ月の間に、世の中も変わりました。
最も大きいのは、新型コロナの拡大です。
4月から5月にかけて自粛生活が続き、暮らしは一変しました。
好きな高円寺の街を少しでも支えようと、クラウドファンディングに募金したり、ランチを積極的にテイクアウトしたりしました。
友人から誘われてzoom飲み会もやりました。
これも初めての体験で新鮮でしたね。
今年は長雨と猛暑もありました。
その期間は登山ができなかったので、プール通いを始めました。
親の体調が優れず、実家に帰省する回数が増えました。
セミリタイアしていなかったら、できないことです。
そんなこんなで、日々があっという間に過ぎていきます。
今年もあとわずか2ヶ月ですよ。
時が過ぎるのが早いのは、仕事をしていても、していなくても同じだなと思いますね。
ふと、「何か社会に関わることをやった方がいいのかな」と考える瞬間もあります。
でも、「働きたい」とは全く思いません。
労働意欲は今のところゼロです。
まだ仕事で疲弊していた時の記憶が鮮明に残っているんですよね。
きっと、こんな調子で1年が過ぎるのだろうな。
おしゃべり禁止の喫茶店「アール座読書館」で本の世界に入り込んだ
高円寺と言えば、ミュージシャンの街、芸人の街というイメージがありますよね。
古着屋さんも多いし、特色のある飲み屋もたくさんあります。
サブカルの街という印象は、間違っていません。
だけど、それはこの街の一面に過ぎません。
高円寺の路地裏を歩くと、こんな「街の本棚」を見つけることができます。
街の人たちが、みんなに読んでもらいたい本を置いておく、街角の小さな図書館ですね。
以前は、閉じられたシャッターに文庫本を吊るしていたところもありました。
古本屋さんも多く、古書市場も定期的に開かれています。
古本と言えば、「古本居酒屋」の「コクテイル書房」もあります。
古書に囲まれながら、文学をテーマにしたカレーや料理を食べる。
もちろん、目の前にずらりと並ぶ古本を買うこともできます。
店の外の壁には「街の本棚」もありますね。
サブカル的なものだけでなく、ちゃんと知的な空間も併せ持っている。
この懐の深さと多面性が高円寺の魅力なのです。
ぼくも先日、文庫本を一冊持って街を歩きました。
向かったのは、「アール座読書館」。
入り口の小さな看板には、こう書いてあります。
「どうぞ静かな時間をお過ごし下さい。お話が出来ません。お食事メニューはありません」
まさに、本を読むための喫茶店です。
自分たちの街にこんな店があるのって本当に贅沢だなあと思います。
中に入ると、窓際に趣のある洋風の机が並んでいます。
一つを選んで座りました。
店の奥には本棚があり、本がずらりと置かれています。
水槽があるスペースもあるので、これをゆっくり眺めて過ごすこともできます。
何種類もあるコーヒーからキリマンジャロを選んで注文。
すると、熱いポットに入って運ばれてきました。
これはうれしい。
コーヒーが熱いまま、3〜4杯は飲めます。
680円とややお高めだけど、これだけ飲めればコスパはいい。
ゆっくり本を読むとき、どうしても何杯かおかわりが欲しくなりますからね。
本好きの気持ちがバッチリわかっているお店です。
店には、インストルメンタルの静かなBGMが流れています。
あとは、水槽にチョロチョロと注ぎ込む小さな水音だけ。
14時ちょうどになったら、時計の鐘が鳴りました。
ひたすら、本の世界に浸ります。
一編の小説を読み終わり、会計する時に見回すと、店はいつの間にか満席でした。
人の出入りに全く気づかなかったくらい、静かな、静かな世界。
680円の贅沢なひとときでした。
「なんとかなる」ニートの達人、phaの言葉が響く
最近やたらと老後の不安を煽る記事が目につきます。
「老後資金2000万円」問題が出てから、さらに加速した感がありますね。
確かに、日本は人口が減少し、労働人口も減っていきます。
国の衰退が確実な中で、年金や介護がどうなるのか、不安になるのは当然です。
じゃあ、老後に備えて今は楽しみを控え、ひたすら老後資金を貯め込めばいいのか。
70歳、80歳まで労働の日々を過ごすしかないのか。
「京大卒の元ニート」ことphaさんが老後について語った記事がありました。
運営してきたシェアハウスを離れて一人暮らしを始めたphaさん。
老後については「これといった見通しはないものの特に不安はない」らしいです。
40歳を機に運営してきたシェアハウスを離れた理由については、「シェアハウスは、やはり若者のものという感じがあって、歳を取るとだんだん似合わなくなってくる感じがしましたね」と語っています。
これ、わかります。
若い時には楽しかったことが、中年になってくると面白くなくなってきます。
若いころは夜遅くまで飲み歩いたり、徹夜でカラオケするのが楽しかった時期がありました。
今はまったくやろうと思いません。
もうそんな体力もないし、飽きたというのもあるでしょう。
ぼくは結婚して子供ができても、年に1度は海外をバックパックで一人旅していました。
30代の終わりごろだったと思います。
旅の途中、知り合った友だちに現地のディスコ(もう死語?)に誘われて行ったことがあります。
一晩中、音楽が鳴り響く店の中にいて、「ああ、もう帰りたいなあ」と思ったのです。
その時、はっきりとわかりました。
ぼくの青春は終わったんだ、と。
旅先で知り合った友達と夜通し踊るなんて、若い時には楽しくて仕方なかった出来事でした。
でも、その時は早く帰ってホテルのベッドで寝たいと思った。
ひとことで言えば、歳を取ったんです。
phaさんも一人暮らしについて「今の暮らしくらいの方がバランスがよくて快適ですね。3日に1日くらい人と会って、残り2日は一人で家にこもる。これくらいで、ちょうどよかったんだなって」と言っています。
ぼくも人に会うのは好きな方ですが、しょっちゅう誰かと会う日々は疲れるようになってきました。
この感覚もわかりますね。
そして、こう語っています。
いつしか「別に何もしなくていいんだな」と思うようになりました。
いざ中年になってしまうと、まあこんなもんだし、これでやっていくしかない、これも悪くないって思えるようになる。
肩の力が抜けていて、いいですね。
多くの人が、「何かしなくちゃいけない」と思っています。
ぼくが会社を早期退職したとき、ほとんどの人は「それで、何をするの?」と聞いてきました。
でも、何もしなくてもいいじゃないですか。
ぼくはいつも「何も決めてない」と答えています。
何かやりたくなったらやる。
それまでは、何もしない。
老後はどうなんでしょう。
20代のうちから老後に備えて資産作りをしている人について「僕には絶対にできない」と言います。
備えたところで、年を取った時に自分がどうなっているとか世界がどうなっているかなんて全く分からないじゃないですか。
(中略)
いつも先のことを不安がってる人は、不安になるのが趣味なんじゃないかって思ったりもする。
ぼくもまったく同じ考えです。
ファイナンシャルプランナーなんかが、20年、30年後に備えた資産づくりなどをよく語っています。
でも30年後のことなんて、誰も分からないですよ。
テクノロジーは加速的に発達しているし、世界情勢も大きく動いている。
銀行なんて残っているのかもわからないし、日本がどうなっているのかも全くわかりません。
30年後に備えて「いま」を犠牲にする考え方は愚かだと、ぼくは思っています。
「アリとキリギリス」の寓話を知らないのか、って怒られるかもしれませんけどね。
キリギリス、上等!
出世したくないサラリーマンが増えている理由は理解できる
会社に勤めていたときのこと。
深夜の業務を終えて疲労困憊し、帰宅に向かう会社の廊下で「ハア〜」と大きなため息をついたのを後輩の社員に見られたことがあります。
もう、こんな仕事、やってられねえ。
そんな思いだったのでしょう。
後ろを歩いていた後輩は「いやあ、大きなため息でしたね〜。ホントに疲れてるんですね」と苦笑いしながら話しかけてきました。
会社で希望退職の募集が始まったとき、真っ先に「早期退職するんでしょう」と言ってきたのがこの後輩です。
ぼくの気持ち、分かってたんですね。
セミリタイア生活が始まって、そろそろ9ヶ月が過ぎようとしています。
日ごろ会社のことを振り返ることはほとんどないのですが、ふとした時に仕事をしていた時代を思い出す時もあります。
もう会社に未練はありません。
バリバリ働いている同僚たちの話や、仲間が出世していく様子を聞くと、頑張っているなあと感じます。
正直、ちょっぴりまぶしく思う気持ちもないではありません。
だけど同時に、あの大きなため息をついた時のことを思い出すのです。
心身ともに疲れ切り、ヘトヘトになって薄暗い廊下を歩いた、あの日のことを。
そして、もう2度と戻りたくないと、改めて思うのです。
いまは出世を望まないサラリーマンが増えているようです。
管理職になって出世しても、責任が大きくなる割に報われない。
「働き方改革」が叫ばれて平社員の勤務状況には注意が払われるけれど、管理職は後回しです。
平社員の負担が軽減された分、それを管理職がかぶることになります。
以前は部下を育てながら成果を出していくのが管理職の仕事でした。
そこには苦労とともにやりがいもあったでしょう。
だけど、いまは部下にもシニア社員が増えました。
部下を育てるというより、年配の社員に気をつかいながら、いかに気持ちよく働いてもらうかに心を砕かないといけません。
年下であっても、パワハラやセクハラにならないよう、常に気をつける必要があります。
会社が右肩上がりでイケイケなら、権限を持つ管理職は楽しいかもしれません。
しかし、業績が悪化している会社では、人員や予算が削減される状況下で成果を求められます。
部下を配置転換したりリストラしたりしなければならない場面も増えます。
気苦労ばかりが多く、報いが少ないのが今の管理職だと言えます。
だから、いま管理職を務めている皆さんは素直にスゴイと思いますね。
人には言えないプレッシャーや責任を背負い込んで、日々働いている。
心から、お疲れ様です!
くれぐれも体と心を壊さないように頑張ってくださいね。
50歳で肩書「旅人」の同級生がいた
今年は新型コロナの影響で、さまざまなイベントが延期や中止になっています。
結婚式も延期が多いらしいですね。
高齢の親族も多数集まるので、仕方ないかと思います。
人気の教会や神社などは次の予約を取るのが難しいのでしょうか、「1年後に延期」を決めたカップルもいるようです。
みんな思いますよね。
1年後、カップルがちゃんと続いているといいなって。
大丈夫かなって。
若いころの1年って、何が起きても分からないですからね。
それはそれとして。
ぼくにも新型コロナの影響がありました。
高校の同窓会が中止になったのです。
卒業以来、30年以上ぶりに一同が集う機会でした。
高齢の恩師らも招待されていたので、中止は妥当な判断だと思います。
ぼくはそれほど高校に思い入れがないので、そんなに残念ではありません。
別に熱く語り合う話題もないし、会社も辞めたので仕事上のメリットもないんです。
昔話って、楽しいですかねえ。
同窓会は中止になりましたが、消息が分かる人の名簿作成は進んでいるようです。
眺めていると、名前のほかに、希望者は肩書をつけています。
「田中太郎 〇〇銀行」「鈴木次郎 〇〇製作所」みたいな感じ。
これ、改めて考えると不思議じゃないですか。
30年ぶりに会う人のアイデンティティーが、働いている会社の名前って。
だって高校時代は、あいつは足が速かったとか、やたら声が大きかったとか、スポーツで全国大会に出たとか、その人を表すものってまちまちだったはずです。
みんな、それぞれの特徴で人物像を記憶している。
なのに、30年後に会う人間を表すものが一律に、勤めている会社の名前になってしまうんですよ。
いかにも会社人間社会のニッポンですね。
ぼくは肩書ナシですが。
そんななか、目を引いた肩書がありました。
「旅人」です。
いやあ、勇気ありますね。
拍手です。
パチパチパチ。
これが20代だったら分かります。
「オレは旅して生きてるんだ」「ほかのヤツとは違うぜ」と粋がる気持ちは理解できます。
でも、みんな50歳なんですよ。
20代で「旅人」を名乗るのとは意味が違います。
50歳にして「旅人」を肩書にできるのって、スゴクないですか?
いったい、何をやって生きているんでしょうか。
高校時代は目立つ存在じゃなかった男なので、そいつのことはあまり記憶にありません。
だけど、30年を超える月日は一人の男を旅人に変えたのですね。
ともかく、誰もが「〇〇証券」じゃなくて、よかった。
日本もまだ捨てたものじゃない。
なんだかほっとしました。
ぼくも次の機会があったら「遊び人」でも名乗ろうかな。
中高年が組織にしがみつこうとするワケ
最近、退職した会社の同僚や仕事関係で知り合った人たちからちょくちょく「飲みに行きましょう」と連絡が来るようになりました。
うれしいものです。
ぼくと会っても、仕事上のメリットなんて何もないですからね。
忘れずに思い出してくれただけでもありがたい。
もしかしたら仕事をしない生活ってどんなものなのか、みんな興味があるのかもしれません。
そりゃそうでしょう。
周りにはアラフィフのプータローなんてそんなにいないだろうから。
ところで、最近は早期退職を考える人も増えてきたようです。
若いうちからFIREに向かってまっしぐらの人も出てきました。
だけど、ほとんどの人は定年まで会社に勤めます。
もちろん、最大の理由は経済面でしょう。
働けるうちは働いて、退職金をもらって老後の資金に充てる。
これが一般的なサラリーマンの人生設計です。
でも、子供も自立し、共働きで金銭的な余裕があるのに会社に居続ける人もいます。
仕事にやりがいがある人はいいでしょう。
そうではなく、役職から外れてやることもあまりないのにしがみついている人もたくさんいるようです。
俗に「妖精さん」って言われているみたいですね。
出社はするけど、いつの間にか席を離れて妖精のようにいなくなってしまうシニア社員を指す言葉です。
いまの典型的な中高年サラリーマンは、組織から離れた経験がない人たちです。
幼稚園から大学まで学校という組織に所属し続け、組織の論理の中で育つ。
新卒で会社に入ると、今度は会社組織にどっぷり浸かった人生を送ります。
だから、組織の中での人間関係しか知らない人が多いのです。
会社から離れたら、あらゆるコミュニケーションが完全になくなってしまうのではないか。
そう考えて不安になる人は多いのではないでしょうか。
実際、退職したら送られてくる年賀状が激減した、という話はよく聞きますよね。
会社に居続けさえすれば、少なくとも話をする対象はいます。
相手が好きだろうが嫌いだろうが、仕事でのコミュニケーションはとる必要があるのです。
やることのない管理職がやたらと会議をしたがる理由の一つは、これだと思っています。
オジサンって、普通にしていたら誰も相手してくれないんですよ。
みんな、くたびれたオジサンよりは若者や女の子と話をしたいものなんです。
でも、そうやって仕事の話ばかりをしていると、ますますイヤがられるのです。
相手にされなくなるのを恐れて、組織にしがみつく。
中高年の男性って、哀れな生き物です。
だけどね。
誰もが、いつかは組織を離れないといけない時はきます。
早かれ遅かれ。
ぼくはセミリタイアしたので、それが一般のサラリーマンより10年ほど早かっただけです。
こう思うのです。
オジサンは、しょせんは孤独なんです。
それを受け入れないといけない。
もちろん、いつも仲間に囲まれてワイワイ過ごせれば楽しいけれど、必ずしもそううまくいくとは限りません。
独りを受け入れ、楽しく過ごす。
独りでも人生を楽しんでいれば、自然と人は寄ってくるのではないでしょうか。
ひとって、楽しそうにしている人のもとに集まるものだから。
セミリタイア生活では、発信を続けることが大事
会社を辞めたときも、そこでお知らせしました。
先日、妻が思わぬ人から「旦那さん退職されたのですね」と言われたらしいのですが、その人はどうやらぼくのFacebookを見ていたようです。
こんなこともあるんですね。
ところで、会社を辞めてしまうと、とたんに社会から切り離されて孤独な日々を送ることになってしまうのではないか。
そんな不安を抱えて、セミリタイアをためらっている人がいるかもしれません。
毎日、図書館に通い、喫茶店でコーヒーを飲む。
公園や街をブラブラ歩く。
誰ともしゃべらない日が何日も続く。
たまに話す相手はコンビニの店員さんだけ。
セミリタイアには、なんとなくこんなイメージがありますよね。
退職後の社会生活は、いったいどんなものになるのか。
これ、実際にセミリタイアしてみないと分からないと思います。
人それぞれだし、何を求めるのかも違うし。
人付き合いが嫌いで、「ポツンと一軒家」のような暮らしが理想なら、他人と交わる社会生活は必要ありません。
仕事での人間関係がイヤだった人は、これ幸いと引きこもって独りを満喫できるでしょう。
だけど、たまには誰かと気軽に話す時間が必要だと思う人は、人とのつながりを大事にしておかないといけません。
ぼくは友人とたわいもないおしゃべりをしたり、仲間と集まったりするのが好きなので、何日もの間、誰とも話をしない生活は望みません。
幸い、今のところは月に数回は友人と会って食事をしたり飲んだりしています。
仕事と関係ない付き合いなので、気楽です。
また、毎日毎日会うわけでもないので、人疲れもしなくて、いいペースです。
ありがたいことです。
どうやったら、人とのつながりを続けていけるのか。
ぼくが活用しているのが、SNSです。
仕事場や会社で人と会うことがないと、ぼくがいったい何をしているのか、誰も知らないことになります。
だから、時おりSNS上で発信するようにしているのです。
内容はたわいもないこと。
山に登ったとか、面白そうな店を見つけたとか、こんな本を読んだとか。
ときどき、始めたばかりの下手くそなピアノの進捗状況をアップしたりもしています。
すると、けっこう反応があるんですよ。
みんな、知人や友人がどんな生活をしているか、ある程度は興味があるもんなんですね。
もし反応が少なくても、少なくとも、ぼくが元気で生きていることは知らせることができます。
そうやって発信を続けていれば、「近く、ごはんでもどう?」と誘ってくれる友人も出てきます。
何をやっているのかまったく分からない人よりも、きっと声をかけやすいのでしょう。
会ったときもぼくの日常を知っているので、それに関する話題もありますしね。
別にゴージャスでキラキラした話じゃなくていいんです。
だいたい、そんな話なんてないし、嫌味になるし。
ふだんの生活を淡々と発信していけば、人とのつながりを助けてくれるんじゃないかな。
そう思っています。